徒然想(院長のブログ)

つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心に移りゆくよしなしごとを、そこはかとなく 書き付くれば、あやしうこそ、物狂ほしけれ」と吉田兼好が序文に書き出した「徒然草」を 「徒然想」ともじって、こころに移りゆく想いを、そこはかとなく書き綴ってみました。 つれづれ時に読んでもらえたら幸いです。

徒然想5

里村 盟[2018年01月10日
わが町の 小さき宮の 晴れ舞台

 わが町の小さなお宮。普段、神主さまもおられず、前を通る時には、たまに頭をさげるくらいの小さなお宮。 そのお宮が初参りの参拝客で賑わっている。まさに一年に一度の晴れ舞台である。自分も軽い驚きと、新鮮な気持ちで参拝した、と言う、なんとも素朴な正月の光景を思わせる一句である。

ところで、いつの時代からか、新春には「明けましておめでとう」と言う挨拶が定着している。
世がまさに群雄割拠の戦国時代であるなら、周囲の敵から逃れられ、疫病や飢餓のような様々な危険を乗り越えて、年を越すことが出来たと、安堵の胸をなでおろすことであろうが、世界一の長寿国、世界最少の乳児死亡率を誇る現代日本では、年が明けても特別にめでたいと思う事も少なくなってきている。高い住宅ローンを強いられ、職場内での対人関係に神経を費やし、疲れきった上では、素直に当たり前の新春の挨拶が交わせずに落ち込んでいる友人もいる。

 挨拶も時代と共に変わってきた。暫くぶりに逢った女性には「なんか、痩せたんじゃない?」と言う挨拶をするのは、もはや、紳士たるものにとっては礼儀みたいなものである。
理由とか理屈とか、そういう根拠というものは全く無い。
心からそう思っているわけでも無い。本当に痩せた人は素直に受け取るだろうし、とんでもなく太った人ならまだしも、多少、太った人でも「体重は増えたけど、顔とか腕とか見えるところは変わらないのだな。」と勝手に解釈するわけである。

ところで、昨年の収穫が多かった為か、多くの方から、りんごが贈られて、美味しくいただいているところです。りんごは、日本では、みかんに次いで、多く生産される果物である。栄養価が高く、特に体調を崩した時には、消化の面で優れている果物である。そんな優秀であるりんごには、大変申し訳ないことではあるが、バナナの気配りについて触れてみましょう。

バナナは気配り、つまり、相手の意向を大事にするという部分がはっきり存在している。同じ果物仲間、りんごと比べてみよう。りんごを食べるには、とりあえず刃物が要る。 皮をむき始めても、皮と実の境界があいまいで、すっきりむく事が難しい。ようやく全域をむき終わって、丸かじりする場合、持つところが無い。手づかみにして果肉に歯を当てるが、常に中心にある芯の事を頭に入れておかねばならない。

バナナの場合はどうか。
バナナを手に持って、先端の方から手でむいていく。
刃物が要らない。刃物を用意させてはわるい、と言うバナナの気配りである。厚すぎるも薄すぎるもない。ただ引っ張りさえすれば、バナナ側が案内してくれる。皮をむいていて、途中でとどめて、むき残りのところを持てば良い。
バナナには独特のカーブがある。口の方からバナナの方に向かわなくても、バナナの方がカーブして口のところに来てくれる。
バナナの気配りは、これだけでは無い。バナナの直径は人類の口の直径に符号している。「あまり大きく口を開けていただかなくて結構です。」と、バナナ側が気を使っているのである。そして、何の抵抗もなく、歯はバナナに食い込み、芯の問題を配慮する事なく噛み切られるのである。元旦にあたって、一年の計をバナナのような気配りを考えてみてはいかがでしょう。


里村 盟

徒然想3

里村 盟[2017年5月12日
  関東ではソメイヨシノの桜の満開の時期が去るも、種々の花たちが、
次々と出番を待っている時候になった。

ところで、アヤメとカキツバタの区別がつかない。
アヤメは山地の草野を好み、カキツバタは池や畦(あぜ)、つまり水湿地に生える。
葉の幅はカキツバタの方が広くて中央に走る線が無い。
花はどうかと言うに、カキツバタは花の付け根のところから薄黄色の線があるのに対して、アヤメは虎の班のような模様がある。と言われてもまだ分から無い。
もう一つ、ややこしい花にハナショウブがある。困ったものだ!

 カキツバタは、在原業平が、「伊勢物語」の中で、三河国で詠んだ歌の頭五文字から採られた名という言われがある。

 から衣、きつつなれにし妻(つま)しあれば はるばる来ぬる旅(たび)をしぞ思ふ
           
俗に言う「いずれ、アヤメ、カキツバタ」と言う、優劣つけかたい美しさで、水の多い季節を彩ってくれる花々だ。
 ところで、人にも大きく分けて二種類の型がある。
「犬型」と「猫型」の二種類である。
ペットとして、どちらが好みかという問題では無い。
人々は「犬的な生き方」か「猫的な生き方」をしていて、そこが面白い。
そこで又、この二種類は「タレント」と「役者」とに分かれる。犬はタレントであって、猫は役者である。タレントは「何でもやる人」の意味であり、何でもやってしまうものだから、忙しくて周りを変える事は出来ない。

これは、まさに犬のようなものである。 犬は何でもやる。お手、お座り、待て、しっぽも振るし留守番も、犯人捜しも、サーカスの芸までやる。しかし、人に忠実と言うだけで、便利屋さんで終わっている感じがする。

これに反して猫は、犬がやるようなことは一切しない。

何をやっているかと言うと、大体、一日、ほとんど眠っているか、じっとしている。だけど、いったん眼を覚ますと、例えば、家の主人の食事のおかずの魚など油断に乗じて取ってしまう。その結果、この猫は叱られる事になるが、晩のおかずも消えてしまった事になる。これはその在り方が、大変に役者的である。役者はタレントの「何でもする人」」に対して、「何かをする人」の意味で、その何かをやった結果、自分も周りも変えてしまう事を言うのである。

 周りの意見に左右され、比較的、主体性が乏しく、終始便利屋である「何でも」の犬型であるより、「何かを」の猫型のような生き方をしたいと思う。
                    里村 盟

ひたぶるに 咲かねば枯れ木 寒桜

里村 盟[2017年2月 6日
 ひっそりと寒桜が咲いている。

色も淡く、花も少ない、しかし、一生懸命に咲いている。

今、咲かなければ、枯れ木と何の違いもない。

生きている証に、精一杯、冷たい風の中に建気に咲いている。

見ているほどに、切なく身につまされる思いを込めて詠んだ好きな句の一つである。

 1月は「行く」、2月は「逃げる」、3月は「去る」と言って、

年明けの3ヶ月はあっという間に過ぎ去って行くのであろう。

 ところで、初春を思わせる花といえば、椿であろう。

凛と澄み切った空気の中、整然とした部屋の片隅に置かれた一輪の

椿ほどふさわしい花があろうか。つややかな緑の葉の間から、

のぞかせるふくよかな花こそは、冬のただ中への天からの贈り物に違いない。

しかし、この花が音を立てて地面に落ちる散り際が、あまりにも、いさぎよいゆえ、

忌み嫌われる向きもあるようだ。けれど、これこそ花の命。

へなへなと茎にまつわりついて、未練ぽく枯れていく花々に比べて、

これぞ厳冬に咲く花であろう。

 ところで、椿の花の別名は実にさまざまである。

耐冬花(たいとうか)、海石榴(かいせきりゅう)、厚葉木(あつばき)

艶葉木(つやばき)、そしてもう一つ、血吐き(つばき)という名の由来がある。

昔々、極楽浄土へ行く道に、どうしても越さねばならぬ血の池があった。

阿弥陀さまはその池に身を沈め、一滴残さず飲み干すと、

その血を天と地に吐き出された。

それが天の血は夕焼けとなり、地の血は椿の花になったという、

ありがたくも美しい仏教説語の一席であります。                   里村 盟

徒然想1

里村 盟[2017年1月 5日

 ご家族の皆様には、ご健勝で新年をお迎えなされた事と、心からお慶び申し上げますとともに、本年も健やかに、より朗らかに、生き甲斐のある豊かな年であれと願うものです。

年々に元旦淡くなりまさる

 知らず知らずのうちに幼心をどこかに遠く置き忘れ、日常の雑事に追われて、行く年への感慨も、新しい年への喜びや期待も薄れて行くという、私流の解釈をもって、心の戒めとしている句の一つです。

忙しすぎる事は、自分を振り返る時間もなく、心が荒む事の警鐘として、心したいものです。

今年の干支は酉(とり)です。
日本が経済大国で、羨ましがられた頃、皮肉交じりに、日本の住居の水準を「"鳥"小屋のように狭い」と称した外国人の言葉が流行った時があった。

 自分の国がどう見られ、どう評価されているかを気にして、外国人の筆や言に一喜一憂するのは、どうやら日本人の特徴かもしれない。

 外国人から見ると、日本の文化は「縮む」が特徴らしい。
「能」は動きを縮めた美学、「庭園」は自然の縮景、「茶室」は遠く離れた山里を縮めた空間と説き、トランジスター、半導体、電卓などを挙げている。

 日本のおとぎ話の代表の一つに「一寸法師」があり、石川啄木の歌「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」の例を挙げて、広々とした東海が小島に縮まり、小島はさらに磯、そして白浜となり、ついには蟹の甲羅にまで凝縮される話法は、日本独自の様式のように思われている。

 外国人から見ると、日本人は縮みの空間である「内」に強いが、広がりのある「外」に弱いと思われているふしがある。

 昨今の貿易摩擦や内需拡大までに話を勧めたいのであろう。
今の日本は、大地に移した盆栽そのもの、と思われているのであろう。
なかなか手厳しいものである。

 年の初めにあたり、世間を広く見て、自分自身の私利私欲にながされる事なく、のびのびと生きる事を切望します。
追伸、今年の春、日本を代表する縮芸術「盆栽」の世界大会が地元の盆栽村が主催で開催されます。
多くの外国人が来訪し、「盆栽」を目のあたりにして「縮文化」の魅力を堪能し、その魅力を確認してもらい、成功裏に終わる事を切望します。

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