徒然想(院長のブログ)

つれづれなるまゝに、日ぐらし硯に向かひて、心に移りゆくよしなしごとを、そこはかとなく 書き付くれば、あやしうこそ、物狂ほしけれ」と吉田兼好が序文に書き出した「徒然草」を 「徒然想」ともじって、こころに移りゆく想いを、そこはかとなく書き綴ってみました。 つれづれ時に読んでもらえたら幸いです。

徒然想4

里村 盟[2017年10月28日
 遠山を たぐりよせては 稲を刈る

 前進しながら、稲の株を刈ってゆく。その前進を遠い山への接近とみてもいい。鎌を手前に引く力を「たぐりよせる」力とみてもいい。手作業時代の稲刈りを彷彿させる。
この句は、ある男性が、新聞に応募した「俳壇」で特選の賞を受けた俳句である。
たわわに実る稲穂の時期にふさわしい句と感銘する。

北から鴨が渡来し、南へ紅葉前線が下がり、山は整う。
味覚の秋、スポーツの秋、行楽の秋、群れて飛ぶ赤とんぼ、
10月は誠に爽やかな季節である。
しかしながら、それとは別に、今年の十月は、約5年間の安部内閣への評価を問う衆院選が執り行われ、舞台裏では生臭く、激しい応酬が繰り広げられ、しのぎを削っている。
又、プロ野球では広島カープとソフトバンクが早々と優勝を決めた。ファンにとっては、これぞ実りの秋であろう。
それに反し、巨人軍は初めてクライマックスへの出場権を逃した。
「身を殺して仁を成す」とは、自分の命を犠牲にする覚悟があってこそ窮地を脱して、物事を成就させる事ができる。
と言う意味の事であり、論語の中の孔子の言葉である。
「挫折を知らぬ者は、真に人を説く事は出来ない。失恋を知らぬ者は、真に人を愛する喜びを知らない。痛みを知らぬ者は、真の健康に気付かない。」
来年、巨人軍は危機感を持って、なり振りかまわず振る舞い、選手一人一人が不満や自我を飲み込んで、全体の歯車の一つに徹していくであろうか。

 衆院選の舞台裏とは違うが、プロ野球の世界でも舞台裏の工作は重要である。 球団のオーナーや社長の理解があって初めて現場の監督やコーチ、そして選手一人一人のモチベーションが上がるというものである。
一回、二回の優勝に甘んじるのでなく、黄金時代を築く為には、現場とフロントの親密なる交流で、お互いの立場を理解する事が大切であろう。
「選手や社員が気持ちよく働いてくれる。」為には、経営者や幹部に課せられた重要な任務がある筈である。

ちなみに「2017年、プロ野球の契約更改アンケート結果」がある。現役選手、800名へのアンケートの調査記録である。
「年俸金額に満足か?」「球団の説明は十分か?」「プレーの評価は満足か?」「球団の査定方法・交渉方法に納得か?」の項目で、12球団の中でソフトバンクがトップであった。
折しも、10月26日にはプロ選手になるための登竜門・ドラスト会議が行われる。
早実の清宮選手はどの球団が引き当てるのであろう。

 十一月も半ばになると、降ったりやんだりする秋雨は、やがて周囲を初冬へと導いていく。
里村 盟

徒然想3

里村 盟[2017年5月12日
  関東ではソメイヨシノの桜の満開の時期が去るも、種々の花たちが、
次々と出番を待っている時候になった。

ところで、アヤメとカキツバタの区別がつかない。
アヤメは山地の草野を好み、カキツバタは池や畦(あぜ)、つまり水湿地に生える。
葉の幅はカキツバタの方が広くて中央に走る線が無い。
花はどうかと言うに、カキツバタは花の付け根のところから薄黄色の線があるのに対して、アヤメは虎の班のような模様がある。と言われてもまだ分から無い。
もう一つ、ややこしい花にハナショウブがある。困ったものだ!

 カキツバタは、在原業平が、「伊勢物語」の中で、三河国で詠んだ歌の頭五文字から採られた名という言われがある。

 から衣、きつつなれにし妻(つま)しあれば はるばる来ぬる旅(たび)をしぞ思ふ
           
俗に言う「いずれ、アヤメ、カキツバタ」と言う、優劣つけかたい美しさで、水の多い季節を彩ってくれる花々だ。
 ところで、人にも大きく分けて二種類の型がある。
「犬型」と「猫型」の二種類である。
ペットとして、どちらが好みかという問題では無い。
人々は「犬的な生き方」か「猫的な生き方」をしていて、そこが面白い。
そこで又、この二種類は「タレント」と「役者」とに分かれる。犬はタレントであって、猫は役者である。タレントは「何でもやる人」の意味であり、何でもやってしまうものだから、忙しくて周りを変える事は出来ない。

これは、まさに犬のようなものである。 犬は何でもやる。お手、お座り、待て、しっぽも振るし留守番も、犯人捜しも、サーカスの芸までやる。しかし、人に忠実と言うだけで、便利屋さんで終わっている感じがする。

これに反して猫は、犬がやるようなことは一切しない。

何をやっているかと言うと、大体、一日、ほとんど眠っているか、じっとしている。だけど、いったん眼を覚ますと、例えば、家の主人の食事のおかずの魚など油断に乗じて取ってしまう。その結果、この猫は叱られる事になるが、晩のおかずも消えてしまった事になる。これはその在り方が、大変に役者的である。役者はタレントの「何でもする人」」に対して、「何かをする人」の意味で、その何かをやった結果、自分も周りも変えてしまう事を言うのである。

 周りの意見に左右され、比較的、主体性が乏しく、終始便利屋である「何でも」の犬型であるより、「何かを」の猫型のような生き方をしたいと思う。
                    里村 盟

ひたぶるに 咲かねば枯れ木 寒桜

里村 盟[2017年2月 6日
 ひっそりと寒桜が咲いている。

色も淡く、花も少ない、しかし、一生懸命に咲いている。

今、咲かなければ、枯れ木と何の違いもない。

生きている証に、精一杯、冷たい風の中に建気に咲いている。

見ているほどに、切なく身につまされる思いを込めて詠んだ好きな句の一つである。

 1月は「行く」、2月は「逃げる」、3月は「去る」と言って、

年明けの3ヶ月はあっという間に過ぎ去って行くのであろう。

 ところで、初春を思わせる花といえば、椿であろう。

凛と澄み切った空気の中、整然とした部屋の片隅に置かれた一輪の

椿ほどふさわしい花があろうか。つややかな緑の葉の間から、

のぞかせるふくよかな花こそは、冬のただ中への天からの贈り物に違いない。

しかし、この花が音を立てて地面に落ちる散り際が、あまりにも、いさぎよいゆえ、

忌み嫌われる向きもあるようだ。けれど、これこそ花の命。

へなへなと茎にまつわりついて、未練ぽく枯れていく花々に比べて、

これぞ厳冬に咲く花であろう。

 ところで、椿の花の別名は実にさまざまである。

耐冬花(たいとうか)、海石榴(かいせきりゅう)、厚葉木(あつばき)

艶葉木(つやばき)、そしてもう一つ、血吐き(つばき)という名の由来がある。

昔々、極楽浄土へ行く道に、どうしても越さねばならぬ血の池があった。

阿弥陀さまはその池に身を沈め、一滴残さず飲み干すと、

その血を天と地に吐き出された。

それが天の血は夕焼けとなり、地の血は椿の花になったという、

ありがたくも美しい仏教説語の一席であります。                   里村 盟

徒然想1

里村 盟[2017年1月 5日

 ご家族の皆様には、ご健勝で新年をお迎えなされた事と、心からお慶び申し上げますとともに、本年も健やかに、より朗らかに、生き甲斐のある豊かな年であれと願うものです。

年々に元旦淡くなりまさる

 知らず知らずのうちに幼心をどこかに遠く置き忘れ、日常の雑事に追われて、行く年への感慨も、新しい年への喜びや期待も薄れて行くという、私流の解釈をもって、心の戒めとしている句の一つです。

忙しすぎる事は、自分を振り返る時間もなく、心が荒む事の警鐘として、心したいものです。

今年の干支は酉(とり)です。
日本が経済大国で、羨ましがられた頃、皮肉交じりに、日本の住居の水準を「"鳥"小屋のように狭い」と称した外国人の言葉が流行った時があった。

 自分の国がどう見られ、どう評価されているかを気にして、外国人の筆や言に一喜一憂するのは、どうやら日本人の特徴かもしれない。

 外国人から見ると、日本の文化は「縮む」が特徴らしい。
「能」は動きを縮めた美学、「庭園」は自然の縮景、「茶室」は遠く離れた山里を縮めた空間と説き、トランジスター、半導体、電卓などを挙げている。

 日本のおとぎ話の代表の一つに「一寸法師」があり、石川啄木の歌「東海の小島の磯の白砂に われ泣きぬれて 蟹とたはむる」の例を挙げて、広々とした東海が小島に縮まり、小島はさらに磯、そして白浜となり、ついには蟹の甲羅にまで凝縮される話法は、日本独自の様式のように思われている。

 外国人から見ると、日本人は縮みの空間である「内」に強いが、広がりのある「外」に弱いと思われているふしがある。

 昨今の貿易摩擦や内需拡大までに話を勧めたいのであろう。
今の日本は、大地に移した盆栽そのもの、と思われているのであろう。
なかなか手厳しいものである。

 年の初めにあたり、世間を広く見て、自分自身の私利私欲にながされる事なく、のびのびと生きる事を切望します。
追伸、今年の春、日本を代表する縮芸術「盆栽」の世界大会が地元の盆栽村が主催で開催されます。
多くの外国人が来訪し、「盆栽」を目のあたりにして「縮文化」の魅力を堪能し、その魅力を確認してもらい、成功裏に終わる事を切望します。

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