徒然想 第五回
わが町の 小さき宮の 晴れ舞台
わが町の小さなお宮。普段、神主さまもおられず、前を通る時には、たまに頭をさげるくらいの小さなお宮。 そのお宮が初参りの参拝客で賑わっている。まさに一年に一度の晴れ舞台である。自分も軽い驚きと、新鮮な気持ちで参拝した、と言う、なんとも素朴な正月の光景を思わせる一句である。
ところで、いつの時代からか、新春には「明けましておめでとう」と言う挨拶が定着している。
世がまさに群雄割拠の戦国時代であるなら、周囲の敵から逃れられ、疫病や飢餓のような様々な危険を乗り越えて、年を越すことが出来たと、安堵の胸をなでおろすことであろうが、世界一の長寿国、世界最少の乳児死亡率を誇る現代日本では、年が明けても特別にめでたいと思う事も少なくなってきている。高い住宅ローンを強いられ、職場内での対人関係に神経を費やし、疲れきった上では、素直に当たり前の新春の挨拶が交わせずに落ち込んでいる友人もいる。
挨拶も時代と共に変わってきた。暫くぶりに逢った女性には「なんか、痩せたんじゃない?」と言う挨拶をするのは、もはや、紳士たるものにとっては礼儀みたいなものである。
理由とか理屈とか、そういう根拠というものは全く無い。
心からそう思っているわけでも無い。本当に痩せた人は素直に受け取るだろうし、とんでもなく太った人ならまだしも、多少、太った人でも「体重は増えたけど、顔とか腕とか見えるところは変わらないのだな。」と勝手に解釈するわけである。
ところで、昨年の収穫が多かった為か、多くの方から、りんごが贈られて、美味しくいただいているところです。りんごは、日本では、みかんに次いで、多く生産される果物である。栄養価が高く、特に体調を崩した時には、消化の面で優れている果物である。そんな優秀であるりんごには、大変申し訳ないことではあるが、バナナの気配りについて触れてみましょう。
バナナは気配り、つまり、相手の意向を大事にするという部分がはっきり存在している。同じ果物仲間、りんごと比べてみよう。りんごを食べるには、とりあえず刃物が要る。 皮をむき始めても、皮と実の境界があいまいで、すっきりむく事が難しい。ようやく全域をむき終わって、丸かじりする場合、持つところが無い。手づかみにして果肉に歯を当てるが、常に中心にある芯の事を頭に入れておかねばならない。
バナナの場合はどうか。
バナナを手に持って、先端の方から手でむいていく。
刃物が要らない。刃物を用意させてはわるい、と言うバナナの気配りである。厚すぎるも薄すぎるもない。ただ引っ張りさえすれば、バナナ側が案内してくれる。皮をむいていて、途中でとどめて、むき残りのところを持てば良い。
バナナには独特のカーブがある。口の方からバナナの方に向かわなくても、バナナの方がカーブして口のところに来てくれる。
バナナの気配りは、これだけでは無い。バナナの直径は人類の口の直径に符号している。「あまり大きく口を開けていただかなくて結構です。」と、バナナ側が気を使っているのである。そして、何の抵抗もなく、歯はバナナに食い込み、芯の問題を配慮する事なく噛み切られるのである。元旦にあたって、一年の計をバナナのような気配りを考えてみてはいかがでしょう。
里村 盟