徒然想 第七回
平成30年8月
日本列島を襲った7月の猛暑が、2年後の東京オリンピック開催に対する懸念を高めている。 この時期は通常、1年の中で気温と湿度が最も高く、出場選手や観客に健康被害をもたらす恐れがあるからだ。
前回の東京オリンピックは1964年10月だった。この時期は日本では、比較的に涼しく、湿度も低い時期だった。だが過去30年にわたり、ほとんどの夏季五輪は7,8月に開催されている。テレビ局が大会を取材する上で、理想的な時期と考えているからだ。
7,8月は世界的なスポーツイベントが少なく、米国を中心にしたテレビ局は、より多くの視聴者を獲得すべく数十億ドルの放映権料を支払う。
五輪開催が9月か10月となるとすると、米国ではフットボール・リーグの開幕や、 野球の大リーグのプレー・オフ、と言った他のスポーツイベントとの間で、視聴者を取り合うことになる。 欧州でもサッカー・シーズンと重なる。
IOC(国際オリンピック委員会)は、2年後の五輪の立候補都市に対し、夏季開催を条件として求めた上で、東京が手を挙げたのである。日程は、スケジュールが重ならないよう各スポーツ国際連盟から意見を聞いて決定されている。
国際的オリンピック研究チームは、東京オリンピックのマラソン・コースに対し、選手や観客が熱中症になるリスクが高い状況となる可能性を警告。 日陰のエリヤを増やすよう、大会組織委員会に提言し、警鐘を鳴らしている。 組織委は、こうした警告を受け止め、マラソン開始時刻の午前7時半から7時の前倒しを発表した。
又、コースや他の主要道路に太陽光の赤外線を反射する遮断性の塗装を行い、温度を下げるとしている。 ところで、日本マラソンの先駆者・金栗四三という人をご存知でしょうか。 金栗は、明治末期から大正にかけ、当時としては、 未公認ながら驚異的な世界記録を出したのである。 彼は世界記録保持者としての自信と誇りをもって、ストックホルムでのオリンピックに乗り込んだのである。
ところが、当日の気温が、30度を超す炎熱のもとでの、マラソンとなった為、脱水をおこし、熱中症に倒れ、意識の無いまま、沿道の人に運ばれ、見知らぬ人の家で介抱を受け、一カ月後に日本に帰国したのである。
その後、彼は教訓を生かし、精進を重ね、血の出るような努力を続けて、合計4回のオリンピック代表となるも、一回も入賞することが出来なかった悲運のランナーなのである。
現役、引退後は、後進の指導にあたり、数々の名ランナーを育て、88歳でこの世を去ったのである。彼が72歳の時、一通の手紙が届けられた。 内容は熱中症に倒れ、完走できなかった1912年のストックホルム・オリンピックで、あなたは正式に棄権手続きを取れなかったが、「委員会では、ゴールすることを要請する。」という、スウエーデン・オリンピック委員会からの招待状であった。72歳の老人が、一人の観客も居ない競技場で、オーバーコートを着たまま、一人でゆっくり走り、 高々と手を挙げ、 ゴール・テープを切ったのである。
この瞬間をもって、彼のマラソン記録は「 54年8カ月3時間45分40秒2」と、告げられた。ちなみに、現在の世界記録は2時間2分台である。
スウエーデン・オリンピック委員会の人情味に溢れる、いきな計らいに感嘆するとともに、はかなく散った敗者は、時として勝者より美しい。そして、挫折から立ち直り、己の道を全うした金栗四三に感銘を受けたのである。 彼は、後に、そのことを回想して「やれ、やれ、長 いレースだったワイ」とコメントしたそうである。 2年後の東京オリンピックのマラソンでは、二人目 の金栗が出ないことを祈念している。
里村 盟