徒然想 第十一回
令和元年10月28日
柿の朱に 亡びざるもの 何々ぞ
―加藤 鍬邸―
夏が駆け足で終息すると、底抜けに青く澄んだ秋の日が毎日続くようになります。 川の水面が、空の青さを映して、油絵具が平刷毛で掃いたように流れるさまが美しい。 青空を背景に、色づき始めた柿は、太陽が地平線に並ぶ頃合いを待ち受け、光が散乱し、 赤色光になると、夕陽の中で、もう一つの太陽が現出したように、良く似合います。 “夕焼け小焼けで日が暮れて・・・”この歌は一番、この季節を謳っています。
ところで、昨今の新聞では、子供への虐待、 いじめ、職場でのパワハラ・セクハラなど、人格を疑う出来事が満載である。 家庭内における“父親の立場”は、子供の人格形成の上で、有形無形の作用反作用を与える上で重要な部分であろう。 父親は普段,家に居ない。朝起きた時には子供は学校へ行っているし、夜、帰ると子供は寝ている。 子供が今、何を考え、何をしているかを、又聞きでしか耳に入らない。 こういう生活が続いているうちに、自分は一生懸命に家庭や子供のために働いているのだから、成長したら、 子供たちは、きっと分かってくれるに違いない、と思い込むようになってしまう。 父親の思い込みによる挫折の始まりである。
西洋では、食卓のパンを切るのは、父親の役目であり「父親は偉いのだ」と言わなくても、いつも父親がパンを切って 配っている姿がひとつの生活様式になっている。そういう形式というものが大切である。昨今の日本は形式を封建主義の 残骸みたいに捨ててしまって大変に損をしている。夕食の時に、父親が上座に座っている家はどの位いるかと聞かれても、どこが上座さえ分からなくなっている。 父親に一品だけでも余計に料理を付けるよりは、勉強が大切だから、子供の方が、盛りの良いおかずを食べている家が多いのである。家庭内における“けじめ”が大切と思う。子供は、家に中でどういう目的を立てて、ルールを守って暮らして良いかが、 分からないのである。 仕方がないから、自分自身でけじめを立てようとする。手っ取り早いのは、何となく机の前に座っている事であり、 なぜかそれは、母親が安心するという単純な目的を達成するからなのである。
暴力息子は意外に真面目な両親の家庭に多いそうである。つまり、冗談を不真面目と取ってしまうような家庭とかである。 ユーモアが、有ると無いでは、大きな差である。 ユーモアが有るというのは素晴らしいことで、精神的な余裕が無いと生まれないと思う。
日本は、明治以来、文明を早く採り入れなければという、あせりが有り、有用なものだけを採り入れた。 ところが教育においては、無駄な要素が必要なのである。
教育というのは真面目だけでは駄目で、柔道のごとく親や先生が、投げ飛ばされて教えるものだと思う。
ところで、親娘(おやこ)喧嘩の最後に、娘が「そんな親なら、不良になってやる!」と言えば、父親は「そんな娘ならボケ老人になってやる!」
と切り返すことで、一件落着する、まるでユーモアの塊のような家庭を知っている。
里村 盟